愛をもって中今を生きる。

平凡な主婦が自分軸に目覚めた軌跡

自分軸で、あがり症治る。

私があがり症だと気づいたのは思春期の頃です。

人前でなにかを発表したり、発言をして注目を集めたりするときに、あがり症が発症してしまうのです。

発表前にドキドキと動悸がしはじめ、人前にたつと赤面現象、声が震え、息がしずらくなります。

多かれ少なかれ経験がある人もいるとは思いますが、私は人生を送る上でこの症状にとても悩まされていました。

なぜなら、キャラじゃないからです。

私はおしゃべりで、人前が大好き、目立つことも嫌いじゃなく、普通にしていても目立ってしまうような明るい性格でした。

発表も好きだし、発表内容にも自信はある。

しゃべりも自信がありました。

なのに、人前に立つと私の意に反して、ほぼ自動的にあがり症を発症してしまうのです。

キャラ的にそういう場面をまかされることも多く、周囲も安心してまかしてきます。

まさか私があがり症なんて露とも思わずに、、、。

だからこそ、余計につらかったのです。どうしても治したいと思いました。

しかし、発表内容を練習してもだめ、人に目線を向けなくてもだめ、人を野菜だって思い込もうとしても無理だし、手に人をかいてもだめ。

特にスピーチ的な発表がダメで、たぶん一人で人前に立つのがだめだったのだと思います。

大人になれば治るだろうと思っていましたが、社会人になってもそれは変わらず、娘が生まれ母になっても変わりませんでした。

私はなるべく人前でスピーチをしなくてすむように、そういうお役目をなるべく避けながら生きていたのです。

もうこれは遺伝かなにかだろう。そう諦めていました。

 

それが、私が自分軸に覚醒し、世界を見る目が変わってから変わりました。

なんと、あがり症が治ったのです!!

今なにかスピーチを頼まれても驚くことに、あまり緊張せずすんなりできてしまいます。

なぜ治ったんだろう?

考えてみました。

私がおばさんになったから?

場数が増えたから?

単純に慣れた?

 

私が思うに自分軸になったからだと思うのです。

自分軸は他人の目を必要以上に気にしません。

ジャッジもしません。

世界を自分と他人と分けて考えず、ほとんどひとつと考えます。

競争しようとしません。他人の幸せは自分の幸せなのです。

この感覚でいると、緊張しようがないのです。

 

他人軸思考をしていた昔は、発表のときに

いい発表をしてみんなに認められたい!とか、

○○には負けたくない!とか、

できないやつと思われたくない、とか

他人の目を、ジャッジをとても気にしていました。

自分で自分を評価していたのもあります。

他人と自分を区別し、競争していました。

そんなことをしていたら、体が自動的に拒否反応を発動していたのかもしれません。

それがあがり症という症状として体に現れていたのです。

 

今は発表などのとき、誰かに伝えたいことをただ伝えようとするだけで、誰かによく思われようとか全く思わなくなりました。

そして他人が敵ではなく、自分と一緒の存在だと思うようになったのです。

そうしたらあがり症は治ったのです。

 

体は正直でした。

この世界にはない他人軸思考の洗脳を、体が不自然だと教えてくれていたのです。

 

あがり症が突然治ったことで、

私は今この人生で諦めていたことがいろいろとできることに気がつきました。

もともと人前は好きですし、しゃべることも好き。

あれもできる、これもできる!と今では夢が広がってきています。

 

コミュニティのありかた

私たちは普段生きている中で、さまざまなコミュニティに属しています。

家族というコミュニティ

学校・職場というコミュニティ

地域というコミュニティ

友達というコミュニティ

趣味仲間というコミュニティ

同窓生というコミュニティ

 

それぞれのコミュニティの中に自分の居場所を探し、役割を探し、見つかると安堵し、定着します。

見つからないと、そのコミュニティにいることが不安や不満を感じ、新たなコミュニティを探し、また居場所を探します。

幅広くコミュニティを広げている人もいれば、ほとんどコミュニティに属さない人もいます。

 

しかし私たちがコミュニティにイメージしていることで共通しているのは、どれもがピラミッド的であり、依存的であるということです。

コミュニティには必ずトップになる人がいて、その周りに取り巻きのような中心グループがいて、そしてその他の人がいます。

どのコミュニティもそのような組織作りになっています。

だから、自分がコミュニティに属するとき、そのコミュニティはピラミッド型であるという思い込みが私たちの頭に出来上がっています。

確かに今までの社会はとても他人軸思考であり、組織は他人に依存的なピラミッド型がほとんどです。

誰かトップの人に従い、方針に従い、波風を立てないようにすることが基本です。

しかしこれは他人軸思考のコミュニティの作り方なのです。

 

本来コミュニティというのは、自分軸思考で作られるべきです。

自分軸的コミュニティとは、一人一人が精神的に自立しており、リーダーではなく、各人の得意なことや好きなことで役割分担されている組織。

コミュニティ内は並列であり、序列はなく、新しい人にもウェルカムな雰囲気があります。

お互いに争わず、競わず、助け合える関係であり、誰かに依存していることもありません。

組織の目的といえば、誰かの役にたてること。利益や収益などは度外視です。

これからは、このような自分軸的コミュニティが社会に必要です。まだ、少ないですが少しずつ社会に登場するでしょう。

これから新しいコミュニティを作るのであれば、この意識は絶対に必要です。

そしてそのようなコミュニティしか生き残れないでしょう。

なぜなら、他人軸的コミュニティは、リーダーか収益などの利益に依存しており、それが失われたとにに自動的に消滅する運命だからです。

自分軸的コミュニティは、永続的に発展する可能性があり、消滅する事由がないのです。

 

自分軸的コミュニティが増えていけば、

家族が変わり、

学校・会社が変わり、

地域・社会が変わるでしょう。

そうやって、今後の未来は自分軸的に変わっていくのです。

そして、何度も言っていますが、これが世界で先駆けてできるのは日本人であると私は思っています。

古代日本を掘り下げる

最近の私のブームは、日本の古代史です。

一万年もの平和な時代と言われる縄文時代、世界最古の石器や象形文字、遺跡が発見されています。

どうやってそんな平和にそんな長い期間を過ごしていたのか?

また、そこから始まる世界最長王朝である天皇という制度。

これだけ世界中で王朝が入れ替わり、世界で戦争を繰り広げられてきている間、なぜ日本は王朝が最長なのか?

古代の卑弥呼がいたという邪馬台国が今でもどこにあったか謎なのかなぜなのか?

考えれば考えるほどロマンと謎に満ちているのです。

そしてそのときの古代人が私たち日本人の先祖であるということ。

つまりは私のルーツになっている。

こんなにウキウキしながら学べる分野はないのです。

私が学生の頃、学校で勉強したときはさらーっとしかやらなかった分野で、まだ謎も多いことを理由にそんなに掘り下げられることはありませんでした。

しかし、近年この古代日本が注目されています。

掘り下げたくなっているのは私だけではないはず。

その歴史が今の日本に古代からつながっているという事実。

世界の片隅の小国と思っていた日本が、じつは最古最長である可能性すらでてきています。

隠され表にでてきていない文献、古文書がたくさんあり、敗戦によりいったんリセットされた歴史が、今また表に現れてきているのを感じます。

歴史というのは勝者の歴史。

つねに、勝者によってねじ曲げられ、書き換えられているのが当たり前です。

だから、真実を今からなにか物質によって導くことは不可能に近いと思っています。

しかし、私たちのDNAや市民の暮らし、習慣は簡単には書き換えられないのです。

だから、なにが真実なのかは己の直感に従う自分軸が大切なのです。

そしてその直感により、日本の古代史が今から表にでてくると感じて掘り下げたくなっている私であります。

ご先祖様に感謝!

悪への対応のしかた

悪とか善という二元論に陥ってはないけないと以前のブログでも書いたのですが、

今日はあえて悪の対応のしかたを書きたいです。

 

そもそも悪や善というのは愛という球体の光の当たってる部分と当たってない部分のような感じで、

もともとは同じものだし、どこから光を当てるかによって見え方が違うだけなのです。

だから、悪とか善にこだわって正義感からジャッジをするなんてナンセンスです。

だって、境界線なんてもともとない同じものなのです。

 

今回私が悪と呼ぶのは、

他人を支配・コントロールしてこようとするものについて限定したいと思います。

つまり他人軸を生み出している根元を悪と呼ぼうと思います。

この悪に、長年多くの市民がコントロールされ、奴隷化されてきている歴史があります。

この地球上ではどの国もその悪が蔓延っているといえるでしょう。

私たちの先祖は、この悪に立ち向かった歴史もありました。しかし結果的に悪は蔓延り、私たちは支配コントロールされています。

他人軸世界は、もう完成を迎えようとしていました。

私たちは争い、

お互いを比べ監視し、

気をつかい、

勝とうとし、

人の目を気にしながら生きています。

 

一見平和そうにはしてますが、

他人軸の世界で捕らえられているようなものです。

ほとんどの人が他人軸に洗脳され、これが普通だと思っています。

でも一部の人が、徐々に自分軸に目覚めてきて、他人軸世界のおかしさに気づいてきました。

その数もどんどん増えていると思います。

他人軸の世界から、自分軸の世界が生まれようとしているのです。

 

赤ちゃんとして生まれたときは誰もが自分軸だということを考えると、いかに今の洗脳が強いかということがわかります。

先祖は洗脳がまだ弱く荒い時代、他人軸世界の構築に必死に抵抗していました。

その結果が、戦争であり、学生運動であり、デモであり、ヤンキーなのです。

しかし歴史からわかると思いますが、抵抗したものは迫害され、吊し上げられ、見せものにされて、洗脳を強化することに利用されたのです。

抵抗者は排除され、洗脳者だけが気持ちよく生きられるようになりました。そうして、市民たちは牙を抜かれ抵抗する気もなくし、ただ支配されるしかなくなっていったのです。

 

この歴史から学べることは、悪に対して自分軸の私たちは対応を間違ってはいけないということです。

対立したり、戦っては悪はなくならないのです。

なんなら、強化されるだけです。

自分軸の私たちは、自分軸のスタンスを平和的に貫けばいいのです。

やさしく悪に接すればいいのです。

拒否したり、排除しようとしても無駄なのです。

悪はなくなりません。

共存というと語弊があるかもしれませんが、悪を認めて否定せず、そして私は平和に自分軸でいる。

それが悪の対応のしかたになります。

先祖たちが教えてくれています。

今こそ平和な自分軸の波動で、世界を包み込むときなのです。

 

迷惑とはかけられるもの

「人様に迷惑をかけないように生きなさい。」

親からそうやって言われてきた人もいるかもしれません。

他人の目を気にしながら生きるようになった原因かもしれませんし、

日本の思いやり文化の根元かもしれません。

外国人が日本に来れば、日本の綺麗さにびっくりするといいます。ゴミが全く落ちていない、電車の中はみんな静かにしている。

人様に迷惑をかけないよう、気をつけて自分をコントロールしながら生きている人ばかりなのです。

 

この教えは素晴らしいものだと思います。

日本人の礼儀正しさを表している、日本人らしい教えです。

しかし、この教えにより、最近勘違いをしている若者が増えたように感じるのです。

その勘違いとは、

自分は迷惑をかけないように気をつけて生きているのだから、周りから自分も迷惑をかけられるべきではない

ということ。

つまり、迷惑をかけられたときに、怒ってしまう人が増えているのです。

「迷惑をかけられた!理不尽だ!」

そう思ってしまうのです。

「ちゃんとしろ!迷惑かけないようにしろ!かけたなら、それ相応の対処をしろ!」

こんな具合です。

もちろん、自分は精一杯気をつけているのだから、そんな自分に迷惑かけられたら嫌ですよね。

 

でも、みなさん、迷惑とはかけないけど、かけられるものなんですよ!

そこまでセットで教えにしておく必要があったかもしれません。そうすれば、勘違いする人が減ったはずです。

生きていれば、故意じゃなく迷惑をかけてしまうことはあります。

わざとじゃなく、忘れ物落とし物したり、迷子になったり、子どもがいたずらする、遅刻する、苦手なことをやる羽目になる、生きていれば迷惑をかけることの連続です。

もちろん、なるべくかけないように気をつけていても、どうしても誰かに助けてもらう場面は往々にしてでてくるのです。

そんなとき、日本人の教えである

「お互いさま」が発揮します。

 

迷惑をかけられたときこそ、助けてあげるチャンスです。

自分に迷惑をかけられたことに目くじらを立ててる場合ではありません。

その人を助けてあげるチャンス。

なぜなら、自分もいろいろな人に助けられながら生きているからです。

迷惑をかけずに生きていくことは難しい。絶対に誰かに助けてもらっています。

でもその人に恩返しをするばかりではなく、自分が迷惑をかけられたときに、その人を助けてあげることで全体的に恩返しをして生きていくのです。

 

だから、迷惑をかけられたら、

恩返しのチャンスと思うことが大切なのです。

 

そうやって感謝の輪が永遠に周り続けて循環していくのです。それができるのが日本人なのです。

なんと素晴らしい民族でしょうか。

世界に誇れる文化、文明を勘違いせず、後世にも伝えていきたいものです。

 

 

 

資産とはなにか

資産という言葉。

資本主義、物質主義、経済にかかせない言葉。

辞書で調べると、個人や法人がもつ財産。とあります。

資本主義の現代では、資産を気にして、

資産を増やすために生きている人が多いのです。

 

では資産とはなんでしょう?

お金?貯金?

土地?株?

権利?借金?

どれも資産のようには感じます。

でもそれは、今の経済システムの洗脳による感覚なのです。

前にも書きましたが、このすべての資産と思われるものは死んでしまえば、その当人にはなんにもなりません。

これらの資産は死後誰かのものになって、自分では天国にもっていくことはできません。

 

私が思う本当の意味での資産とは、自分の魂の成長に関わるものをいいます。

つまり、経験や縁、絆、人間関係こそ資産なのです。

あれ?急にお金に関わるものではなくなってしまいました。

そうです。

私たちは資産を増やすために生きている。

その資産とは、経験や縁、絆、人間関係なのです。

そしてそこから学ぶ魂の成長こそ、あの世にもっていける唯一の土産なのです。

 

それなのに、私たちはお金という鎖に縛られています。お金のために自分の時間や体力、気力を使い果たし日々クタクタになっています。

そして資産と思われるお金にまつわるものをひたすらに増やそうとしてがんばっているのです。

どうやら、がんばりどころを長年間違ってしまっているようです。

お金に罪はありません。私たちが洗脳され誤解しているだけです。

私たちが増やすべきものを明確にすれば、お金は一番の味方となってくれるものです。

お金をひとつのツールとして、

本当に私たちか求めているものに向かいましょう!

自分のためではなく、

本当の意味での資産を増やすためにお金を使ってみるのもいいでしょう。

本当の人生の目的に気がつきましょう。

誰にでもできるのです。

あなたの力を発揮しようとすれば、自ずと本来の資産が増え成長することになるのです。

 

お金の鎖から抜け出そう!

お金を味方にして真の目的を果たそう!

新しい資産に対する見方が必要です。

自分軸の恋愛

私もかれこれ結婚して15年以上がたとうとしています。だから、恋愛も久しく遠ざかっているし、周りもママ友だらけで恋愛話なんてなかなかする機会もないのです。

でも私には1人独身の友達がおり、時々彼女の恋愛相談に付き合っています。

昔から恋バナが好きで、相談をうけるたびに私もウキウキしたりどよーんとしたり、疑似恋愛気分で楽しんでおります。

 

友達の話しをきいていると、

恋愛にもこんなに他人軸思考が入っていると、心が落ち着かないのだな、としみじみ思うので今日はその話しをします。

 

他人軸の人の恋愛における思考に多いのが、

「◯◯と比べて私のことが好きなのか?」

「愛されているという証がほしい」

「嫌われたくないから、言いなりになっちゃう」

「私を優先してほしい。私だけ特別扱いしてほしい」

 

みなさん、心当たりありますか?

私も昔は他人軸思考でしたから、見覚えありますよ。

でもこれはすべて他人軸的な思考による恋愛で、うまくいかなかったときにどっと落ち込んだり、相手の機嫌によってこちらの気分も上下したりと、

ほんとにたいへんな恋愛になりがちです。

 

恋愛というのは愛にも直結する素晴らしい経験。

他人軸思考でするのはもったいないのです。

 

では自分軸の恋愛ってどんなかんじ?

自分軸の人はぶれない、相手に左右されない、無償の愛を発揮する、のが特徴です。

 

「私はあなたが好き。一緒にいると楽しい」

「あなたが嬉しいと、私も嬉しい」

「いつもありがとう」

「私のことは気にせず、あなたがやりたいことをやってみたらいいよ」

「一緒にいれたら嬉しいけど、別々の道でもあなたの幸せを願っているよ」

 

こんな感じです。

ちょっと冷たく感じますか?

それか下僕のように感じますか?

自分軸なら相手の幸せが自分の幸せとなるため、束縛や押しつけ、すがったりをしません。

でも自分の好きに確信があり、ゆるぎません。不安も少ないのです。

 

自分軸の恋愛は、両者とも成長することができますし、思いやりを持ち続けることができます。

私の友達にも是非このような恋愛をしてほしいと思っていますが、他人軸思考の癖はなかなかすぐには変わらず苦しんでいます。

でもなんとなく自分軸をわかりはじめており、そのたびに良い方向へすすんでいます。

恋愛っていつでもできるわけじゃありません。好きはまさに、奇跡です。

楽しんでほしいなと思います。