愛をもって中今を生きる。

平凡な主婦が自分軸に目覚めた軌跡

ジェンダーという教育について

教育現場では最近ジェンダーが意識されています。
すべての子どもが、さん付けで呼ばれ、男の子でも女の子でも同じ色の文具を使うなど。
男の子と女の子を差別なく扱うという教育です。
女の子だって消防士になりたくてもいいし、
男の子だってピンクが好きでもいい。
LGBTの子どもがいるかもしれない中で、性別を強要しないという取り組みです。
これ自体は、個人の自由が尊重されていて素晴らしい部分もあるのですが、私はやりすぎないように注意が必要だと思っています。
これは結局男女平等という考え方につながるわけですが、
以前のブログにも書いたようにこの男女平等というのはくせ者なのです。
本来男と女は体の作りは生物的や役割も違います。
そこを無視して男女平等といっても、矛盾するに決まっています。
男っぽい女がいてもいい。
女っぽい男がいてもいい。
男になりたい女がいてもいい。
女になりたい男がいてもいい。
でも、男と女は違いがあるし、特徴が違う。考え方や、得意分野も。子育てにおいてもできることが違う。
この違いをお互いに尊重することが大切なのです。
ということは、違いをよく観察し、お互いの違いを理解することが大切だと思っています。

なのに、教育界で小さいときからジェンダーの教育をしてしまうと、幼い頃から男女の違いを感じにくい。
お互いの違いを発見するチャンスを失ってしまいます。
そうか、男は女の子より力が強そうだ。車と電車とか戦いが好きなやつが多いな。とか。
女は女でたまってしゃべってばっかりいるな。ヒラヒラキラキラしたものが好きな女が多いな。とか。
もちろん男が全員そうではないし、女が全員そうではないですが、全体的に男と女がいることを幼いときから気づくことはとても大切です。

男にも女にも属している感じがしない。そういう人もいるでしょう。でもそういう人は自分でしっくりくる位置にいれば問題ないと思います。それをオープンにできる環境ならもっといいと思います。

ともあれ、ジェンダー教育というのは行きすぎると、男女平等というトラップを、子どもたちに刷り込むことになるので、
私は反対です。
男と女だけでなく、個々が違うことを、注視して違いを発見し、その違いをお互い尊重できるようになってほしい。
またお互いに苦手な部分を補いあい、すべての人が助けあって生きていけるように。
それには平等なんて必要ないのです。
違って当たり前なのだから。

すべての人を生まれたままお互い認めあえる世界となりますように。